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1980年代後期-1990年代前期(ウォーターフロントブーム)

全国各地に高級ディスコが乱立したバブル絶頂期、流行の仕掛け人である空間プロデューサー達は次なる視点を湾岸エリア(ベイサイド)に向けた。これはバブルの影響により土地が高騰しディスコで必要とされる200坪以上の物件が出なくなったのと、出ても家賃が高額だったため湾岸地区の空いてる安い倉庫や土地を利用し巨大ディスコを造りあげた。 1988年「MZA有明」を筆頭に「オーバー2218」「サイカ」「ゴールド」「横浜ベイサイドクラブ」と次々にオープンする。またディスコ以外でもレストランやバーがこのベイサイドに展開された。これら共通の特徴は一見普通の倉庫にしか見えない外見が、中に入ると非現実世界を思わせるお洒落な空間になっており、このミスマッチな組み合わせが話題を呼びウォーターフロントブームを巻き起こした。またディスコ=ユーロビートだった音楽がハウスやニュージャックスウィングやブラックなど店のコンセプトに合わせて音が枝分かれ始めた時でもある。しかし車でしかアクセスできない不便なロケーションでもあったため、集客は伸び悩みバブル崩壊と共に各店閉店に追い込まれた。そしてウォーターフロントブームを引きずるように「ジュリアナ東京」がオープンする。

1991-1993年(ジュリアナ東京ブーム) [編集]
バブル崩壊が始まった1991年、東京都港区芝浦に外資系の巨大ディスコ「ジュリアナ東京」がオープンした。外国人DJジョン・ロビンソンによる本格的なMCで、ユーロビートに代わって人気がでたテクノサウンド(レイヴテクノ)が流れた。やがて、マスコミで取上げられる中でボディコンの女性たちがジュリ扇と呼ばれた羽根付き扇子を振り回し、巨大お立ち台で踊るといったブームが生まれた。このジュリアナ東京ブームのファッションは1980年代中期以降のDCブランドによる上品なボディコンと違い肌を露出した過激なボディコンが特徴で、中にはより露出度を強調するために手作りしたボディコンを着る女性まで現れた。こうした過激なボディコンでTバックなど下着が見えるのも構わずに先を争ってお立ち台に上がるといった光景を目当てに男性客が押し寄せるといった異様な熱気となった。この過激な光景はマスコミやメディアによってクローズアップされジュリアナ東京ブームは地方にも飛び火し、人気が衰えていた地方店の「マハラジャ」「キング&クイーン」などではスーパーお立ち台を増設してジュリアナ東京ブームに便乗し全国的に再人気が出る。また赤坂「ロンドクラブ」では「日拓舞踊宴」と称しボディコンだと入場料が100円になり過激さに拍車を掛けた。そしてこのようなブームで荒木久美子(荒木師匠)、麗舞、きしめんダンサーズなどのカリスマ女性も生まれた。

ジュリアナ東京ブームの主流となっていた音はいわゆる「ジュリテク」や「レイヴテクノ」と呼ばれ、現在のテクノとは異なりどちらかといえばユーロビートにも近いサウンドである。当初はT99「ANASTHASIA」、LAスタイル「JAMES BROWN IS DEAD」、2アンリミテッド「TWILIGHT ZONE」などが代表されるインスト的なヒット曲が多かったがエイベックスによる「EXPLOSION」「CAN'T UNDO THIS!!」などの和製ジュリテクが生まれ、さらにジョン・ロビンソン自ら唄う「TOKYO GO!」でブームの頂点となりエイベックスから出たCD「JULIANA'S TOKYO」シリーズが驚異的セールスを記録した。

この空前のジュリアナ東京ブームは、名古屋などの地方が東京より過激になり露出競争はとどまることがなく、とうとうニップレスや下着のみだけで踊る女性まで現れその光景はストリップに近いものになる。そしてジュリアナ東京では余りに品のない露出競争に嫌気をさした純粋にダンスを楽しむ常連客の急速な客離れや大家との内紛(湾岸の倉庫を格安で借りて、豪華な設備とDJとメデイア戦略に投資して集客していたが、儲かるのを見た倉庫主が大幅な家賃引き上げに走ったという)や世論の批判や警察の指摘もあって巨大お立ち台は撤去され、クリスタルステージが設置されたが集客と熱気は戻らず1994年に閉店した。閉店日は感謝と称し入場料が無料となったこともあり全国からジュリアナ東京の閉店を惜しむファンが詰めかけ、数千人入る巨大ディスコにも収容しきれず田町駅から行列ができ、アンコールの声が閉店翌日の昼過ぎまで続いたという。

ちなみに現在でもメディアがバブル景気を紹介するときにこのジュリアナ東京のお立ち台で扇子を振ったボディコン女性たちの映像を出すが、実際はこのジュリアナ東京ブームはバブル崩壊後の光景である。

1992-1997年(第二次ユーロブームとクラブの台頭) [編集]
ジュリアナ東京のレイヴテクノの影響により冬の時代を迎えていたユーロビート。しかし1992-1994年まで第二次ユーロブームが神楽坂「ツインスター」や六本木「エリア」を中心に起こった。この頃のユーロビートを湾岸系ユーロと呼ぶこともある。これはNOVA21グループの浦安「エデンロック」「ロイヤルトン」がジュリアナ東京ブームの最中でも独自にユーロビートを押し続け、両店の店名に「TOKYO BAY(湾岸)」が冠していたことから湾岸系ユーロと呼ばれるようになった。この第二次ユーロブームの特徴は何と言っても「パラパラ」である。店ごとに振り付けが違ったり、サビの部分しかパラパラがなかった第一次ユーロブーム時とは違いパラパラビデオの普及により振り付けが統一され、曲の最初から最後まで複雑な振り付けが付いたのが特徴である。さらにエイベックスからリリースされたCDスーパーユーロビートが順調なセールスを出し、極めつきはエイベックス主催の東京ドームイベントで全国から集結したパラパラ愛好者でドームが満杯に成る程であった。この頃のファッションは「ルナマティーノ」や「ベルサーチ」が人気で、中でもこの「ルナマティーノ」を着たカリスマダンサー「ルナ軍団」が話題となる。

しかしジュリアナ東京が閉店した1994年、六本木に最後の大型ディスコと呼ばれた「ヴェルファーレ」がオープンするも、この頃から自分に合った音を求めるコアな常連客だけで営業が成り立つクラブが主流を占めるようになり、いわゆる「ディスコ」から「クラブ」に変化した時でもある。集客スタイルも豪華な店や黒服からDJやオーガナイザーに変わり全国的に大型店が閉店しディスコ時代の終焉となる。

1990年代のバブル景気崩壊頃から大型の「ディスコ」に代わって、風営法の網をくぐった飲食店でのオールナイト小規模DJイベント「クラブ」が流行した。

一般的に店舗面積が広く、オール・ジャンルをかけ、ジャケットやシャツの着用を義務づける(女子はたいていコードがない)ドレス・コードが存在するナンパ行為が多い箱などをディスコ、音楽ジャンルが明確にされている箱をクラブと呼ぶ場合が多い。一方法的な相違点は、風適法3号営業のいわゆるディスコ登録店は原則24時の閉店が義務付けられているのに対し、クラブは飲食店登録(深夜酒類提供飲食店営業)のため終夜営業が可能な点である。専ら、本来24時閉店を義務づけられているディスコが、営業時間を延ばすために飲食店としてディスコイベントを行ったのが始まりである。日本の風営法によるものなので、海外ではディスコと特に区別していない。店舗面積が広いが、東京都新木場に位置するStudio Coast(ageHa)などが有名。21世紀に入るともはや「ディスコ」という呼称は消滅[1]し、店舗形態に関わらず「クラブ」と呼ばれるのが一般的になっている。海外ではクラブで遊ぶことをclubbingともいう。

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2009年04月08日 09:32に投稿されたエントリーのページです。

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